かわさきの生涯学習情報

本文へ

2022年 特集 源頼朝と稲毛三郎重成

勝手にコラボ 特集「源頼朝と稲毛三郎重成」の見出しの表示

かわさきの講座・イベント情報

これまでの特集

源頼朝の生涯(略歴)

西暦
年齢
できごと
1147年   尾張国熱田に生まれる。(幼名、鬼武者・鬼武丸)
父:源義朝 母:由良御前(熱田神宮宮司藤原李範の娘) 乳母は比企尼、寒河尼、山内尼 
1158年 12歳 皇后宮権少進に任官
1159年 13歳 ・鳥羽法皇の皇女・上西門院に仕える上西門院蔵人となる
・右近衛将監・二条天皇の蔵人に補任(6月)
・源義朝(父)・藤原信頼とともに、平清盛の留守を狙ってクーデター。政権の奪取(平治の乱)(12月)
・帰郷した清盛に敗れ、東国へ敗走(義朝・頼朝)→義朝謀殺・頼朝京都に護送される
1160〜
 1180
14歳〜
 34歳
伊豆国へ配流 比企尼の娘婿である安達盛長、河越重頼、伊東祐清が側近として仕える
・伊豆相模の武士と連絡を取り合う 天野遠景・土肥実平・岡崎美実
・乳母の甥・三善康信から京都の情報を得る
・監視役:北条時政の娘(政子)と結婚(32歳) 長女「大姫」誕生(33歳)
1180年 34歳

・後白河上皇の皇子「以仁王」とともに挙兵( 8月 伊豆の目代:山木兼隆を討つ)
・三浦一族と合流できず、石橋山の戦いで敗走。8月28日真鶴岬から安房国へ脱出
    捲土重来
・安房の安西氏・上総の上総広常・下総の千葉常胤、が参上
・武蔵国に入ると、足立氏をはじめ、葛西氏・畠山氏・河越氏・江戸氏らの秩父一族も頼朝に従う
・その後、頼朝は鎌倉に入る。鎌倉は鎌倉幕府の本拠地として発展する
・平家は追討軍を送るが、甲斐国で挙兵した武田信義らとともに富士川の戦いで追討軍を打ち破った。

1181年 35歳 平清盛病死(2月)
頼朝が後白河法皇に密奏、法皇への忠誠を誓う。源平の共存を申し入れ。→平氏拒絶
源義仲(木曾義仲)平氏を追って入京。→義仲と後白河法皇が対立
1183年 37歳 朝廷では平家追討の恩賞に対して、議論が行われて戦功第一は頼朝とされるが頼朝は上洛せず
10月には、東国諸国の支配権を公的に承認される
1184年 38歳 弟の源義経が平氏と戦い、京都から追い払う。
1185年 39歳 壇ノ浦で平氏滅亡
頼朝は鎌倉から動かず、「公文所」「問注所」設置
北条時政らを上洛させ「守護・地頭」の設置を法皇に承認させる
1189年 43歳 義経と法皇の接近を恐れ、義経謀反を捏造。法皇に義経追討の院宣を出させる。
頼朝は義経をかばった奥州藤原氏を討つ。幕府の支配が全国に及ぶ。
1192年 44歳 後白河上皇が没し、頼朝が征夷大将軍に補任される
1198年 52歳 稲毛三郎重成の妻(政子の妹)の追福のため、新造した相模川の橋の供養に参加。その帰路落馬。
1199年 53歳 死去(死因不明)

1180年 源頼朝の決起〜敗走〜捲土重来

頼朝の決起〜敗走〜捲土重来

頼朝の決起〜敗走〜捲土重来 jpg(688KB)

挙兵・敗走(伊豆韮山・真鶴石橋山)

  • 後白河法皇の皇子である以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発する。
  • 4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。
  • 頼朝は、坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかける。
  • 8月17日、頼朝の命令で北条時政らが韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取る。
  • 8月23日,真鶴付近で頼朝軍三百騎は平家方の大庭景親、伊東祐親、梶原景時ら三千余騎と戦って(石橋山の戦い)惨敗。
  • 頼朝勢は、土肥杉山の洞窟に身を隠す。
  • 土肥実平の助けにより8月28日に真鶴岬(現在の岩海水浴場)から船で安房国(現在の千葉県南部)へ脱出する。
  • 再起 房総(安房・上総・下総)

  • 8月29日、頼朝は安房国へ上陸(平北郡猟島(『吾妻鏡』)と安房郡洲崎(『源平盛衰記』の2説あり)
  • 安房国内で長狭常伴を討つ。さらに、長狭氏以上に軍事力経済力を持つ安西氏が頼朝に参向
  • 房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請。下総国府で千葉一族と合流。広常が大軍を率いて参上。
  • 鎌倉へ(武蔵・相模)

  • 10月2日太井・隅田の両河を渡る
  • 武蔵国に入ると足立遠元、葛西清重が合流
  • 葛西清重の説得によって同じ秩父氏一族である畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも頼朝に従う
  • 武蔵国府から、後に鎌倉街道と呼ばれる道(上道または中道か?)を使って多摩丘陵をぬけ鎌倉へ向かう
  • 10月6日、かつて父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入る


  • 鎌倉を守る北の備え 枡形城をはじめとした川崎近隣の城       (4月7日掲載)

     ※ カーソルが指の形になるところでクリックすると別ページに跳びます

    鎌倉を守る北の備え

    威光寺 小沢城 桝形城 作延城 有馬城  井田城 加瀬城 榛谷御厨 小山田城 小野路城 亀井城 家系図
  • 鎌倉時代、多摩川沿いの丘陵地には山城や丘城がいくつも連なっていた。枡形城をはじめ、小沢城作延城、亀井城、有馬城、井田城、加瀬城。多摩丘陵の突端にあって、いずれも関東平野を一望できる格好の地につくられ、鎌倉幕府の北の守りを固めていた。とりわけ、稲毛三郎重成が本拠を置いた桝形城は要所で、重成の死後幾度となく争奪が繰り返されている。
     出典:枡形城址に立つ説明板より
  • 橘樹・都筑の多摩丘陵を領した重成は天然の山塊を利用して小澤・枡形・作延・井田・加瀬の城壘を構築していきます。しかし鎌倉時代のこと、城といってもその機能は政治の中心的なものではなく、多摩川に臨む急崖を利用しての砦のようなものだったと思われますが、関八州から鎌倉を守る軍事的な価値は大きかったのではないでしょうか。
     出典:柿生郷土史料館  情報・研究誌「柿生文化」58号 平成25年3月1日発行
       シリーズ 「麻生の歴史を探る」 第28話 稲毛三郎 〜その城〜
      http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka58.pdf
  • 鎌倉を守る北の備え 枡形城をはじめとした川崎の城    (第2回 4月7日掲載)

    威光寺

    小沢城

    枡形城

    作延城

    有馬城

    井田城

    加瀬城

    榛谷御厨

    小山田城

    小野路城

    亀井城

    秩父一族 稲毛三郎重成

    源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』は伝えています。稲毛三郎重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の重臣として活躍した人物です。
    https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000109.html
    (川崎市教育委員会HPより)

    稲毛三郎重成の生涯
    (武蔵国最大の武士団である秩父平氏の一員・将軍頼朝の義兄弟であり執権北条時政の娘婿)  

  • 桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。父は小山田氏の祖・小山田有重であり、重成は当初『小山田重成』を名乗る。
  • 従兄弟は秩父党の有力者である畠山重忠(重成も「政子の妹を妻」としている)
  • 1180年8月の伊豆における源頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対
  • 衣笠城合戦では衣笠城を落城させて三浦義明を討ち取った。
  • 1180年10月、隅田川の長井の渡しにおいて、畠山重忠ら秩父一族と共に頼朝に帰伏
  • 稲毛重成は、頼朝の正室・政子の妹を妻に迎える。
  • 同じく、畠山重忠も、頼朝の正室・政子の妹を妻に迎える。
  • 多摩丘陵に所在した武蔵稲毛荘は、重成は頼朝からこれを安堵され進出。枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城
  • 治承・寿永の乱においては秩父一族は畠山重忠、重成・重朝兄弟らが東国へ参陣
  • 1189年7月には、重朝とともに義経を匿った奥州藤原氏の討伐に参陣
  • 1190年の頼朝上洛に供奉
  • 1195年 6月、 頼朝の再上洛に随行。その帰路、美濃国で妻の危篤を知る。頼朝から駿馬が下賜され急ぎ本領へもどる。
  • 同年7月、妻の病没を悲しみ出家して法名を道全と名乗った。以降、稲毛入道、小沢入道と呼ばれる。
  • 1198年 重成は亡き妻のために相模川に橋をかけたが、この橋の落成供養に出席した頼朝は、帰りの道中で落馬
  • 1205年6月22日、畠山重忠の乱が起こり、北条時政の謀略によって従兄弟の重忠が滅ぼされる
  • 北条時政の意を受けて無実の畠山重忠を稲毛重成が讒言したとされ、稲毛重成の弟の榛谷重朝とその子が謀殺され、重成とその子小沢重政も殺害される。
  • 稲毛三郎重成の1180年

  • 1180年8月の伊豆における源頼朝挙兵では畠山重忠が率いた平家方(秩父氏)として頼朝に敵対
    (参考資料:「多摩市史」通史編1)
  • 衣笠城合戦では畠山重忠に率いられた平家方(秩父氏)が衣笠城を落城させ、三浦義明を討ち取った。
  • 1180年10月、隅田川の長井の渡しにおいて、畠山重忠ら秩父一族と共に頼朝に帰伏


  • 鎌倉街道   4月21日掲載

     

    鎌倉街道 (上道・中道・下道)